生活費の高騰、不十分な年金制度、キャリアへの圧力、そして不平等な育児・家事の負担。こうした要因が、インドの夫婦の子育てに対する考え方を大きく変えつつある。「DINK」(Double Income, No Kids)は、子供のいない共働き世帯を指す言葉で、今やインドの都市部で一つのライフスタイルとして認識されるようになった。これは、若者が単に子供を欲しがらなくなったという単純な話ではない。なぜ子育てをめぐる価値観が変化しているのか、その背景を探る必要がある。
今年初め、世帯年収360万ルピー(約670万円)でも子供を持つのは経済的に無理だと語る若い夫婦の動画がSNSで話題となった。インドにDINK世帯に関する公式な統計はないが、40歳以上で子供のいない女性の割合は2019年から21年にかけて12%に上昇しており、高学歴化や都市部での居住との関連が指摘されている。DINK世帯はこの一部に過ぎないが、彼らの存在は現代インドの課題を浮き彫りにしている。
かつてインドでは、子供が老後の親を支えるのが当たり前だった。しかし、子供が仕事を求めて都市部や海外へ移住することで、その関係は崩れつつある。公的年金も労働人口の4分の1程度しかカバーしておらず、多くの人にとって老後の不安は大きい。自分たちの親が安定した老後を確保するのに苦労する姿を見てきた世代にとって、子供はもはや確実な老後の「投資」とは言えなくなっているのだ。
DINK世帯の消費は、旅行や高級品だけでなく、不動産や貴金属、自己投資にも向かっている。これは、老後の支えとなる子供がいない分、自分たちでセーフティネットをゼロから築こうとしている表れと見ることができる。一方で、子育て自体のコストも急騰している。ファイナンシャルプランナーの試算では、都市部の中流家庭で子供一人を21歳まで育てる費用は、650万ルピー(約1200万円)から1200万ルピー(約2200万円)にも上る。
今日の親は、単に子供を養うだけでなく、最高の学校や環境を与えたいと願う。その期待感が、子育てのコストをさらに押し上げているのだ。そのため、問われるのは単に「子供を養う経済的余裕があるか」ということだけではない。「子供一人にどれだけのお金を使う義務を感じるか」という問いが、十分に収入のある夫婦でさえ子育てをためらわせる一因となっている。
問題はお金だけではない。時間、特に女性への不平等な負担も大きな要因だ。インドの2024年の調査では、女性は無償の家事や育児に1日平均約7時間を費やすのに対し、男性は3時間未満にとどまる。子供が生まれれば、この負担はさらに重くなる。キャリアを中断する女性にとって、これは経済的なリスクも伴う。職場でも「チャイルド・ペナルティ」として、子供を持つ女性が不利になる現状がある。女性には最大26週間の有給産休がある一方、男性の育休制度は未整備であり、制度面でも不均衡は残っている。
こうした状況から、DINKという選択は、平等に分担される見込みのない負担に対する、ある種の自己防衛策とも言える。また、親の自己犠牲を見て育った世代が「自分の子供にはさらに多くを与えたい」と考える傾向も、一人当たりの子育てコスト感を高め、結果として少子化を促す一因となっている。同時に、子供を持たない生き方への社会的な偏見も薄れてきた。これにより、夫婦は経済的な理由だけでなく、時間、キャリア、個人の目標など、あらゆる要素を考慮して子育てについてオープンに議論できるようになった。
DINK世帯はインドの出生率低下の直接的な要因ではないが、その背景にある複雑な計算を可視化している。彼らは未来を放棄しているのではなく、不確実な将来の安全を、そこにいるかもしれないし、いないかもしれない一人の子供に委ねることを拒否しているのだ。増え続ける都市部のカップルにとって、子供を持たない、あるいはその選択を無期限に延期することは、もはや反抗的な行為ではない。それは、自分たちが現実的に築ける人生についての、合理的な計算に基づいた選択肢となりつつある。