台湾のシラヤ族は、7月30日の行政令により、台湾で17番目の原住民族として正式に認められた。これは、2025年10月に施行される平地原住民族身分法に基づき、平地に住む原住民族がその地位を認められた最初の事例である。

他の多くの台湾原住民族と同じく、シラヤ族は母系制ぼけいせい社会であり、オーストロネシア語族に属するシンカン語という独自の言語を話していた。この言語は、オランダの植民地時代(1624年~1662年)に、宣教師たちによってローマ字で書き残かきのこされている。

シラヤ族は、明王朝の遺臣いしんである鄭成功ていせいこうが築きずいた東寧とうねい王国(1662年~1683年)が清しん王朝に滅ほろぼされるよりもずっと前に、台湾本島の西南平原地域に定住していた。その過程で、一部の部族は本島の東南海岸へ強制的に移住させられたこともあった。

シラヤ族は精霊を信仰しんこうし、人間と自然界の精神的なつながりを崇拝すうはいする独特の儀式を行っていた。しかし、300年以上にわたる強制的な同化どうか政策の結果、その文化と言語はほとんど失うしなわれてしまった。同化政策は清王朝時代に始まり、日本の統治とうち下、そしてその後の国民党による軍事独裁どくさい体制の下でも続けられた。

シラヤ族が自分たちの言語と文化を再発見し、復興させるまでには、30年以上の年月を要した。現存する稀少きしょうな母系制社会の儀式の一つが、関連動画で紹介されている。

清朝しんちょうの植民地支配下(1684年~1895年)、台湾の原住民族は二つのグループに分類された。山岳地帯に住み、清の行政に抵抗した人々は「生番せいばん」と呼ばれ「未開」と見なされた。一方、平野に住んで税金を納おさめ、政府に服従ふくじゅうした人々は「熟番じゅくばん」と呼ばれ「文明的」と見なされた。シラヤ族は後者に分類された。

清政府はシラヤ族に対し、母語の使用を禁きんじ、髪をそって満州の支配者に従したがうこと、そして中国語を学び、漢民族の姓や儀式、文化を取り入れるよう強制した。

日本の植民地時代(1895年~1945年)になると、日本の行政官は清政府の分類を引き継ぎ、オーストロネシア系の原住民族を大きく二つに分けた。平地に住む「平埔族へいほぞく」は漢民族の入植者と同様に扱われ、9つの特定の部族が山地に住む「高砂族たかさごぞく」として分類された。この二つの民族は、行政目的で設もうけられた軍事境界線によって隔へだてられ、山岳地域は軍事支配下に置かれた。

1949年、国共内戦に敗れた国民党は中国本土から台湾へ撤退てったいした。その後、国民党は日本の植民地時代の分断統治政策を採用さいようし、山地に住む原住民族(山胞)と平埔族を区別した。しかし、原住民族として正式に登録されたのは山岳地域に住む「山胞」だけで、平埔族は原住民族とは見なされず、一般の漢民族として扱われた。

国民党の軍事独裁時代(1949年~1987年)、平埔族は教育や様々な行政措置、時には公の場での辱はずかしめなどを通じて、漢文化への同化を強く迫せまられた。一方、山岳地域は「制限区域」とされ、立ち入るには特別な許可が必要だった。これにより、国民党だけが部族社会とのつながりを独占し、有力者との利害関係を築きずくことで地方選挙を操作し、一党独裁を維持いじしたのである。

1968年、国民党政府は台湾の原住民族が古くから住む土地を「原住民保留地」として法的に登録し始めた。これにより、土地の使用権が原住民族に与えられ、漢民族への土地売却が制限された。しかし、法律には抜け穴があり、開発業者や企業、地方自治体によって土地が差さし押おささえられる事態も発生した。1990年代初頭に台湾の民主化が始まると、原住民族はようやく自分たちの権利を求もとめて声を上げられるようになった。

民主化以降、原住民族の権利運動が活発になり、重要な政策転換が次々ともたらされた。例えば、1994年には蔑称べっしょうであった「山胞」が「原住民族」に改められ、1995年には強制的な漢姓登録制度が廃止された。1996年には関連問題を担当たんとうする閣僚かくりょうレベルの「原住民族委員会」が設置され、1997年には原住民族の集団的権利が、1998年には教育権が法律で定められた。

しかし、平埔族の子孫たちが原住民族としての権利を主張する動きは、長い間据すえ置おかれてきた。その理由として、彼らが代々受け継いできた土地が開発の可能性が高い平地にあることや、異民族との結婚によって漢民族に同化したという見方があった。また、台湾の原住民族は議会での議席確保や、格差是正のための積極的措置によって社会的に優遇ゆうぐうされているため、新たな原住民族が増えることへの懸念もあった。

2022年、憲法裁判所の画期的かっきてきな判決によって、ついに平埔族の権利が認められた。この権利は、2025年の平地原住民族身分法で正式に法律として定められる。シラヤ族は、平埔族の中で初めて原住民族の地位を求もとめ、そして認められた。そこに至るまでには30年以上の闘たたかいがあった。

他の平埔族と同様、シラヤ族の闘いは土地の権利問題から始まった。彼らの先祖代々の土地が、「原住民保留地」を定める制度から除外じょがいされたためである。この抗議活動は、やがてシラヤ族だけでなく、平埔族全体を巻き込む法的な闘争とうそうや文化運動へと発展していった。

シラヤ族の活動家の中でも、タラヴァン家の尽力じんりょくは際立きわだっていた。彼らは三世代にわたってシラヤの文化と言語の復興に献身けんしんしてきた。第一世代のチェンヒオン・タラヴァン氏(85歳)は1999年に協会を設立し、歴史的遺産いさんの復元や遺物いぶつの収集などに努めた。彼の娘夫婦は、オランダ人宣教師が残した『マタイの福音書』の翻訳を手てがかりに、シンカン語を復活させた。彼らは4,000語の単語を掘ほり起おこし、それを用いて子供向けの本や歌を作成した。そして第三世代は、シラヤ文化の活性化と啓発けいはつ活動に力を注いでいる。

タラヴァン家の一人は、SNSでシラヤ族が原住民族として法的に認められることの重要性を次のように訴うったえている。

シラヤ族の地位回復は、誰かを排除したり、対立を生んだりするためではありません。歴史に遮さえぎられてきた名前が、ようやく再び注目されることを願っているのです。

また、今回のことをきっかけに、より多くの人々が台湾という土地の真の歴史を理解し、平埔族が歩んできた道や、なぜ言語と文化が消えてしまったのかを理解してくれることを願っています。そして、この民族が突然現れたのではなく、ずっとここに存在し続けてきたことを理解してほしいのです。