インドネシアで国民の怒りが高まっている。これは格差や政治論争に対する一時的な不満にとどまらず、エリート層の不処罰やデジタル操作といった、より根深い構造的な圧力が民主主義制度への信頼を侵食していることの表れである。
社会心理学者はこの変化を「ルサンチマン」と表現する。これは無力感や屈辱感、制度への長期的な不信を特徴とする、慢性的で内面化された感情状態を指す。一時的な激しい怒りとは異なり、ルサンチマンは抗議活動が沈静化した後も持続し、人々の政治的行動や正当性への認識を形成していく。
国中で著しい矛盾が目に付く。SNSでは、政治家一族が数十億ルピアの高級品を見せびらかし、プライベートジェットで移動し、豪華な宴会を開く姿が拡散される。その一方で、補助金付きの米を求める長い列で母親が気を失い、大卒者は仕事を見つけるのに苦労し、工場労働者は度重なる解雇に直面する。このエリート層の華やかな生活と国民の厳しい暮らしとの隔たりが、「なぜ国民はこれほど怒っているのか」という根本的な問いを投げかけている。
社会心理学者によれば、ルサンチマンは、正当な不満が制度的に繰り返し救済されないときに生じる。インドネシアでは、主に5つの構造的要因がこの状況を強めている。
第一に、政治エリートの間で目に余る「不処罰」が横行していることだ。汚職容疑者は、拘束されてもカメラに笑顔で手を振り、刑事告発が社会的汚名にならないことを示唆する。公の場での謝罪はまれで、倫理問題による辞任はさらに少ない。また、大統領の息子のために立候補年齢要件を憲法裁判所が再解釈した一件は、法がエリートのために曲げられるという国民の疑念を確信に変えた。
権力上層部からの無神経な冗談も、エリート層への不信を助長する。広範な学校給食の食中毒を「メディアの誇張」と一笑に付したり、汚職根絶には独裁が必要かもしれないと軽口をたたいたりする態度は、国民の苦しみを軽んじ、正当な不満を無効化する。これは権力者による「弱者たたき」であり、民主的な説明責任を侮辱的な見世物に貶めている。
第二に、大学や学者が政治や企業の利益に迎合し、「知の番人」としての役割を失いつつあることだ。高等教育の商業化が進む中、一部の学者は「雇用創出法」のような物議を醸す法律を正当化する論文を発表してきた。環境紛争で企業を擁護したり、資源開発プロジェクトに疑似科学的な根拠を提供したりする専門家もいる。市民は知的な羅針盤を奪われ、特に大学を頼りにしてきた農村部や労働者階級の裏切られたという思いは強い。
第三に、民主主義の後退が、法的な手続きという見せかけのもとで進められていることだ。汚職撲滅委員会の弱体化や、十分な国民的議論を経ずに可決されたオムニバス法(包括法)など、主要な制度変更は合法的に実行された。かつて説明責任の象徴だった機関が解体され、法的な救済手段が狭まるにつれ、国民は「法は権力者のためにある」という無力感を強めている。
第四に、デジタル空間でのイメージ操作と、国民の現実認識との乖離だ。国家と連携したサイバー部隊やインフルエンサー、AI生成コンテンツが、世襲エリートを親しみやすい人物として描こうとする。しかし、2025年初頭の「#暗いインドネシア」抗議活動では、国民の不満が表面化した。生活費の高騰や雇用不安を訴えるデモに対し、政府側は「インドネシアは暗くない」と反論し、経済は改善していると主張した。このメッセージは、困難な現実に直面する多くの国民にとって、自分たちの苦しみを否定される「政治的ガスライティング」(現実を否定して相手を混乱させる心理的虐待)と受け取られた。
第五に、深刻化する環境危機と、それに対する制度的な無関心である。森林火災による有毒な煙霧、鉱業開発による土地の収用、水質汚染は、多くの地域社会にとって日常の脅威だ。当局が「過去の火災の方がひどかった」などと影響を軽視する発言をすると、国民の怒りは増大する。採掘による利益は上層部に流れ、リスクと損失は地元が負わされるという構図が、政治への不信を根深いものにしている。
インドネシアが抱える現代の緊張は、約50年前に詩人W.S.レンダが「私は問う、だが私の問いは、権力の動かぬ机にぶつかって砕ける」と描写した状況と重なる。彼の「症状を記録し」「現実の問題に身を投じる」という呼びかけは、今日の市民の心にも響く。
現在高まっているルサンチマンは、単なる国民の不満ではなく、民主主義の正統性が揺らいでいることの表れだ。この状況を乗り越えるには、構造改革、透明性のある統治、そして真の説明責任を通じて信頼を再構築することが不可欠である。それがなければ、国民の憤りは社会の結束を脅かし、インドネシアの政治を不安定化させ続けるだろう。