写真家スマン・ネパーリ氏による本記事は、2026年8月、ネパール・タイムズに掲載された。グローバル・ボイスは、コンテンツ共有契約に基づき、この記事を一部編集し転載する。
川岸の森には、数人の子どもたちが身を潜めていた。彼らは負傷し、深く怯えていた。5歳のキルティ・タマンは、母親と姉妹が激流に呑み込まれていくのを目の当たりにしたという。斜面に投げ出された彼女は奇跡的に生き延び、その後、自身の二人の子どもとともに発見された。
キルティは未だ言葉を発することができない。同じ学校に通うビスワス・タマンの怪我はより重く、首には生徒証を提げたままだった。彼を発見したのは学校の教師で、生徒証の情報から母親に連絡を取った。母親は隣の郡に住んでおり、息子をベトラワティにある英語で授業を行う公立中学校に通わせていた。
私はその場に座り込み、目の前の惨状を凝視していた。心には、まるで洪水のように感情が押し寄せた。カメラを取り出すことはできなかった。その行為が無礼に感じられたからだ。私ができたのは、ただ立ち尽くし、悲惨な光景から目をそらさず、被災者たちの痛みや悲しみに寄り添うことだけだった。
我々はカトマンズを午前4時にオートバイで出発し、トカの峠に到着したのは夜明けごろだった。途中で短い休憩を取り茶を飲み、再び先へ進んだ。
被災地に足を踏み入れると、すぐさま死と破壊の兆候が目に飛び込んできた。24時間前に町全体を呑み込んだ洪水の爪痕は甚大だった。川沿いでは、土石流が驚くほどの高さまで地面を削り取り、残された木々も泥まみれになっていた。3階建ての建物は屋根だけが残り、そこからは瓦礫がぶら下がり、横転したダンプカーは土砂に半分ほど埋没していた。
トリシュリ・バザールは跡形もなく失われ、デビガットも濁流に吞み込まれた。中国国境へと続く道も寸断されていた。我々はオートバイを押して森の小道を進み、ベトラワティに着いたのは午後1時。以前なら数分で到着できた10キロの距離に、5時間も要した。
バイクがぬかるみで滑り、私たちは何度も転倒した。道中ずっと、泥に覆われた川岸を見つめながら、洪水で流された親族の痕跡を探して歩く人々が後を絶たなかった。中には中国人もおり、水力発電所で働く同僚たちの行方を捜していた。
そして、ついに遺体を目にした。私は木陰に座ったものの、カメラを構えることはできなかった。およそ35歳くらいの若い女性が、かつて誰かの家だった建物の外で堆積物に埋もれていた。
人々はそれが自分の知り合いではないか確かめようと、近くまで見にくる。そして、鼻や口をショールで覆い、首を振ってその場を離れていく。
最後にやって来た男が、彼女の夫だった。彼は静かに地面に崩れ落ち、同行者たちに支えられていた。
損失は計り知れない。これはまさに国家的災害である。しかし同時に、何千という家族にとっての悲劇でもある。生き残るには本当に運が良いか、激しい濁流から逃れて高所へ避難するだけの体力が必要だった。
親族や友人の遺体を見つけられただけでも幸運だと言える。ほとんどの人は、その朝一緒に茶を飲んだ家族の行方を知ることもできない。ましてや、しっかりと掴んでいたにもかかわらず土石流が連れ去った、息子や娘、姉妹の行方もだ。
最も効率的な災害救助団体であっても、物資を十分に揃えた状態であっても対応しきれないほど今回の災害は規模が甚大だ。仮に食料が届き避難所ができたとしても、これだけの数の人々が一体どのようにして目にした光景と折り合いをつけることができるだろう。彼らは家族だけでなく、家や畑、家畜や財産も失っているのだ。
私は2015年の地震についても取材したが、今回の災害は次元が違うと感じた。編集者には、これを単なるジャーナリストの仕事として扱うことはできないと伝えた。目の当たりにした惨事は、一介の記者として受容するにはあまりにも重すぎたからだ。この出来事は、私自身の人生観をも変えてしまうほどの影響を与え、無常であること、そして世界が一瞬にして消え去る可能性を痛感させた。
編集部からは写真を撮り取材をし、名前と年齢に加えて彼らの心境も尋ねるよう指示を受けた。私にはどうしてもそれができなかった。しかし最後には勇気を振り絞り、望遠レンズで数枚シャッターを切った。