ロシアによるウクライナ侵攻以降、ロシアと北朝鮮の関係は緊密化しています。先週、ロシアのウラジミル・プーチン大統領が2000年以来となる北朝鮮への公式訪問を行いました。北朝鮮の国営通信によれば、平壌の大通には何万人もの人々が列をなし、両首脳を乗せた車を歓迎したということです。両首脳は二国間関係の強化について協議したと伝えられています。今回の訪問で、両国の独裁者が相互防衛や軍事協力に合意したことに対し、世界の指導者からは懸念の声が上がっています。
両国の接近が注目される中、この機会に帝政ロシアやソビエト連邦の時代に朝鮮人がいかにして困難を乗り越えてきたか、そして現在のロシアにおける少数民族としての彼らの状況を振り返りたいと思います。ロシアやその周辺国では、旧ソ連時代にロシア極東部に住んでいた朝鮮民族の子孫を「高麗人」と呼んでいます。
朝鮮人がロシア帝国へ移住し始めたのは19世紀後半のことです。その主な原因は、朝鮮半島における貧困や自然災害であったとされています。
初期の朝鮮人移民はロシアの沿海州に定住し、「地新墟」と呼ばれる最初の高麗人の村を形成しました。19世紀末には約9千人だった沿海州の高麗人人口は、1917年には約9万人にまで大幅に増加しました。
しかし1937年、ロシア極東部に住んでいた約17万2千人もの高麗人が、中央アジアへ強制移住させられるという悲劇が起きました。その背景には、ソ連政府の高麗人に対する政治的な不信感や、日本との対立が深まる中で、彼らが日本の協力者になるのではないかという疑念がありました。
スターリン政権下で最初に強制移住の対象となった少数民族は高麗人でした。約17万2千人が貨物列車に乗せられ、現在のカザフスタンやウズベキスタンへと強制移送されました。この過酷な移送の途中で、1万1千人もの命が失われたと記録されています。
1937年の強制移住が行われる前、沿海州には高麗人のコミュニティが栄えていました。当時は2つの民族区、77の村ソビエト、400の学校、さらに教員養成学校や劇場、複数の雑誌や新聞が存在し、朝鮮語による教育や文化活動が活発に行われていました。
その後、1993年4月1日にロシア連邦は、1937年以降のソビエト政府による高麗人への行いを非合法と認定し、彼らを政治的抑圧の被害者として名誉回復することを議決しました。
1959年の人口調査によると、ソ連に住む高麗人のうち、44.1%がウズベキスタン、23.6%がカザフスタンに居住していました。2013年時点でも、ウズベキスタンには18万人以上の高麗人が暮らしています。
ソビエト連邦の崩壊後、中央アジア諸国に住んでいた高麗人の多くは、ロシアやウクライナへ、あるいは韓国の特例措置を利用して韓国へと移住していきました。
現在、高麗人の3世や4世といった若い世代は朝鮮語を話せないことが多いです。しかし、教育熱心な伝統は受け継がれており、多くの若者が高等教育を受けています。
また、子供の1歳の誕生日を祝う「トルチャンチ」や「寒食節」といった伝統的な儀式や催事も大切に受け継がれています。「トルチャンチ」では、子供の前にさまざまな物を置き、どれを手に取るかでその子の将来を占う「選び取り」という行事が行われます。
食文化も高麗人にとって重要な文化遺産です。特に、ロシアで手に入る食材で作られる「高麗人キャロットサラダ」のような料理は、キムチを現地風にアレンジしたもので、彼らの文化が生み出した独自の一品として人気を博しています。
ロシアの伝説的なロックミュージシャンであるヴィクトル・ツォイや、作家のユーリー・キム、プロボクサーのコンスタンティン・チューなど、ロシアの文化やスポーツの分野で大きな功績を残した高麗人も少なくありません。