戦争が起きている時、その国の文化や国全体が、たった一つのイメージで語られることがよくあります。特にニュースなどでは、その傾向が強いです。ウクライナは2014年にロシアから最初の侵攻を受け、2022年に再び全面的な侵攻が始まりました。多くのメディアは、戦争による破壊や人々の抵抗について報じてきました。もちろん戦争は無視できません。しかしウクライナには、戦争以外にも語るべき豊かな文化があります。多様な言語や民族が生み出した、独自の文学、音楽、美術があるのです。
この矛盾した状況について理解を深めるため、私たちはイリーナ・シュヴァロヴァさんにインタビューをしました。シュヴァロヴァさんは、詩人、学者、翻訳家として活動しており、現在はオスロに住んでいます。彼女の詩集『ストーンオーチャードウッズ』や『エンドソングス』は賞を受賞し、その作品は32の言語に翻訳されています。インタビューは台北での対面とメールで行い、内容を編集してまとめています。
フィリップ・ヌーベル(以下FN):戦争という厳しい現実と、あらゆるものからインスピレーションを得る文学の自由との間で、どのように創作活動を続けているのですか?
イリーナ・シュヴァロヴァ(以下IS):以前、イタリアでの詩の朗読会で、観客の一人からこんな質問をされました。「ウクライナの詩人は、戦争の他にどんなことを書くのですか?」と。この質問は、ある意味で理解できます。2014年に紛争が始まり、特に2022年の全面侵攻の後は、ウクライナの作家にとって戦争は避けることのできない重要なテーマになりました。自分たちの世界を根底から揺るがす出来事について書かない、ということは不可能なのです。
私たち詩人も、文学が戦時下の文化外交として重要であることをよく理解しています。祖国の窮状を世界に伝える手段になるからです。しかしその一方で、海外に招かれて話をするとき、私たちが期待されるのは、主に戦争について語り、戦争に関する詩を朗読することです。ウクライナの詩は戦争をテーマにしたものだけではないにもかかわらず、です。
私の2024年の詩集『エンドソングス』は、喪失という経験をテーマにしており、戦争に関する詩も多く含まれています。ですが、人が成長して過去の自分を失うことや、移住によって故郷を失うことも、私にとっては同じように興味深い「喪失」のテーマです。しかし、海外の出版社やイベントの主催者は、そうしたテーマにあまり関心を示さない傾向があります。悲しいことですが、私が「戦争に苦しむウクライナ人」という、限られた予測しやすいイメージの通りに振る舞うことを期待されていると感じることがあります。
ここには矛盾があります。なぜなら、読者もまた、戦争というテーマばかりのウクライナの作品に触れることに疲れ始めているからです。「戦争疲れ」は実際にあるのです。だからこそ、私たちは海外の読者に、ウクライナ文学がどれほどユーモアに富み、複雑で、豊かな物語にあふれているかをもっと伝えたいのです。戦争は私たちの創作活動に影響を与えますが、それが私たちの全てを決定づけるわけではありません。
FN:あなたは詩人だけでなく、様々な活動をされていますね。2014年の侵攻後、ドンバス地方の戦争の歌を研究されたそうですが、その中で最も驚いたことは何でしたか?
IS:はい。私は作家・翻訳家のほかに、ウクライナと東ヨーロッパの研究者でもあり、現在はオスロ大学で博士研究員をしています。研究者としては、大衆文化(ポップカルチャー)と政治がどのようにつながっているかに興味があります。ご質問の戦争の歌に関するプロジェクトは、私の博士課程での研究で、2016年に始めました。2022年の全面侵攻の前から、戦争に対する文化的な反応はすでに力強く存在していました。当時はドンバス地方が中心でしたが、その影響はウクライナ全土の人々に及んでいました。8年間にわたって紛争は犠牲者を出し続け、やがて全面侵攻による、さらに残虐な戦闘へと拡大していきました。
私が特に関心を持ったのは、ポピュラー音楽が戦争中の人々の気持ちや経験をどのように反映しているか、ということです。いわゆる「高尚な」文化(ハイカルチャー)と違い、ポップカルチャーは、人々が簡単に楽しんだり、消費したり、さらには自分で作り出したりすることもできます。特にソーシャルメディアの時代においてはそうです。戦争をテーマにした分厚い小説を、誰もが読むわけではありません。しかし、ポップソングなら3分で聴くことができます。YouTubeでは、ある戦争の歌が拡散され、数百万回も再生されました。ポピュラーソングは、急速に変化する戦争の状況と、それに対する社会の反応を、独自の視点で見せてくれるのです。
私が驚いたのは、学問の世界でさえ、多くの人がポップカルチャーを「研究する価値が低いテーマ」だと考えていることでした。同僚の中には、私の研究対象を軽んじたり、馬鹿にしたりする人もいました。幸い、そのような考え方は変わりつつあります。